こんぴら歌舞伎のまちづくり
1.jpg3 こんぴら歌舞伎の復活
 テレビ撮影に訪れた3人の役者は、初めて接する旧金毘羅大芝居にすっかり魅了されたらしい。「これこそ歌舞伎の原点」「是非この舞台を踏みたい」「何よりも客と一体感を感じる、舞台と客席の距離がすばらしい」と話し合ったのが、文化財としての旧金毘羅大芝居が芝居小屋として35年ぶりに「こんぴら歌舞伎」を復活させる再スタートとなった。一方私達の方では、「文化財での歌舞伎公演を許可してくれるだろうか」「お客様には本当に来てもらえるだろうか」「公演のノウハウのない者に出来るだろうか」という不安ばかりであった。実現までの道のりは険しく厳しいものであったが、「こんぴら歌舞伎」が復活できるならと、松竹株式会社にも全面的な協力をお願いし、官民一体となって旧金毘羅大芝居での歌舞伎公演に全力を注いだ。そして翌年の昭和60年6月に記念すべき「第1回四国こんぴら歌舞伎大芝居」が復活した。この年の公演は6月27日から3日間で昼夜5回行われた。
 この「こんぴら歌舞伎」の企画には、各分野のメディアの貢献があったことも特筆したい。例えば某テレビ局は、約1千万円の制作費をかけ、ヘリコプター、クレーン車、特殊機械を駆使し、半年前から撮影を開始し、昭和60年の7月「再現!こんぴら大芝居」のタイトルで全国にテレビ放映を行った。このようにテレビ・新聞・雑誌などを通じて情報発信された「こんぴら歌舞伎」は、全国に大きな反響を呼ぶことになるのだ。
 「第1回四国こんぴら歌舞伎大芝居」は、旧金毘羅大芝居の良さを生かすために中村吉右衛門が自ら「松貫四」のペンネームで脚色した「再桜遇清水(さいかいざくらみそめのきよみず)」を上演し、芝居小屋の機能を生かした芝居が好評を博し、全国から熱烈なファンで町は賑わいを見せた。このように役者と地元との熱意が結集し、3日間すべて満員盛況という大成功を納めることが出来た。公演の前日には、役者を乗せた人力車が町を練り歩く催物(お練(ね)り)を行い、町は約千本を数える“のぼり”と、お練りの見物の人々であふれた。人力車の回りには黒山の人だかりで、掛け声が飛び交い、役者はファンとの握手、握手で押しつぶされそうなほどであった。
2.jpg4 ボランティアの活躍
 旧金毘羅大芝居の公演は、多くのボランティアの人たちによって支えられている。江戸時代そのままの芝居小屋なので、電気も機械も使わずに上演するため、舞台転換時に使う回り舞台・せり・すっぽんは全て人力により操作する。また照明は自然光のみで3段階になっている明かり窓の開閉によって行う。これらは全て琴平町青年部員20名が毎日、ボランティアで行っているのである。
 お客様のお席への案内・プログラムの販売・掃除などを担当してくれるのが"お茶子さん”である。1日20名から30名の女性がかすりの着物姿でボランティアで参加してくれている。最近は"お茶子さん”の参加も全国的になり、福島県・茨城県・埼玉県・東京都・三重県・京都府・岡山県からも泊りがけで参加してくれる。このように地元のみならず全国からのボランティアの人達で”まちづくり”の輪が広がっている。

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