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そのむかし、侍たちがこんぴらさんへのお使い道としていたところから、お使者口と呼ばれていた。
海の神さまとして、昔から栄えたこんぴらさんへの参拝道だった旧伊予・土佐街道の、こんぴらさんの入口付近には、100メートルにわたって60余りの石灯籠が並び、牛屋口と呼ばれている。いつのまにか、お使者口(おししゃぐち)が牛屋口(うっしゃぐち)と呼ばれるようになった。付近には餅屋、菓子屋、お茶屋、床屋のほか、佐文の綾子おどりに使われる高知から到来したクワの棒などを作るやり屋、しわく屋という大きい料理屋などがあり、とてもにぎわっていたようだ。
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こんぴらの愛宕山の中腹に、天狗の箸洗い場と言われる所が在る。むかしむかし、阿波の箸蔵山の天狗が、こんぴら山へ遊びに来ては、ご馳走を食べて、いつも箸を洗っていた所である。大きな岩と岩の間にあるこの箸洗い場には、絶えることなく清水がわき出ていた。
ある日、麓に住んでいた元気者が「ようし、この箸洗い場の水をかい出してやろう。」といたずら心を起こした。
ところが、その夜から三日三晩首が回らず、たまりかねて近くにある接骨医を訪ねた。
「ああ、天狗にやられた。」といって首が動くようにしてもらい、その後、箸洗い場には近づかなかった。
また、こんな話も残っている。
こんぴらさんの大祭(十月十日)に集まった天狗が使った箸が観音堂の縁の下に捨ててあって、ある大祭の晩の大嵐で箸が箸蔵山へ飛ばされていったという話である。
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むかし、むかし、こんぴらさんの麓に、みんなから「てっぽうまん」と呼ばれていた職人がいた。
ある日、10メートルほど離れたひるた神社(財田町)の、地神さんの屋根の修理を頼まれたときのことである。てっぽうまんは夜になって神社の世話人の家にやって来た。色々と雑談が続いているうちに、てっぽうまんはこんなことを言うた。「こんぴらには大きな一千石の旦那はんが居るんじゃが、その旦那はん、いつでも奉公人や、家の者にこんなことを言うて聞かせておるっちゅうことじゃ。」すると神社の世話人さんは、「何を言うて聞かせるんかのう。」とひざをのり出した。
「一銭なんの、二銭なんのの天井に釘を打つ、百円かんまん、千円かんまん、万円かんまん、と繰り返すそうな。」「ほほお、それなんということかいのう。」と世話人が聞くと、「小さい金は、どこへつこたか(使ったか)分からんげに使うなよ。大きい金は財産になる物が買えるきにつこてもええことでな。」と、さも得意気に言った。「一銭なんの、二銭なんのの、天井に釘を打つ・・・・・」と口ずさみながら、こんぴらへと道を急ぐ、てっぽうまんであった。
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むかし、兵蔵さんが大阪へ旅に出た。宿屋に泊っておると、宿屋の主人が「あんたは、どこからか。」と聞くので、兵蔵さんが「わしは金毘羅さんのすぐ近くから。」と答えたら、主人が「あの金毘羅さんのきざはし(石段)は、なんぼあるか。」と聞くのだが、兵蔵さんは知らずに恥をかいた。
兵蔵さんは、悔しくてならない。朝起きて顔を洗いに井戸に行くと、つるべがあった。そこで竿の節を数えた兵蔵さんは、「このつるべの竿の節の数は、なんぼあるか。」と聞いた。
主人は「知らない」と、頭をかいた。
それから金毘羅さんへ参ったら、石段を数えるもの、と言う話が残っている。 |
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むかし、むかし、門前に住む宮大工の棟梁のもとに、大きな仕事が転がり込んだ。棟梁は、その規模の大きさに驚くばかりで、日夜、提案にくれておった。
ある日のことである。大工の棟梁に夢告げがあった。「松の木でダルマを彫り、そのダルマを見ていると良い。」と言うので、毎日ダルマを彫り続け、出来上がったダルマとにらっこしておった。
すると良いことが浮かんできた。心が落ち着き、仕事も順調に進み、完成したのは金毘羅宮の旭社の神殿だったのである。
その後、困っている人を助けるために彫ったダルマはこんぴら参りの人に喜ばれた。 |